
カットリーカも見たことだし、ちょいと町を歩いてみましょう。
お天道サマがてっぺんまで登り、昼食をたっぷり詰め込んだ胃袋と脳ミソが、満足げに瞼を閉じようとする、町がいちばんまどろむ午後過ぎ。昼食前にも仲良くだべってたのに違いないオヤジたちが、食後もやっぱりワラワラ集まってる(笑) たとえ誰かがコックリ船を漕いでいても、おしゃべりとカードを繰る手は止まらないのだ。
でもって、そ〜ゆ〜とこを隠し撮りするイケナイアタシなのであった(^^ゞ
あんな場所に建っているカットーリカが今も現存しているのはイッツァミラコ〜!!と前述したが、それは
1783年と
1908年に大地震があったから。特に1783年の被害は甚大で、20近くあった町の教会のほとんどが倒壊してしまった。
この
Duomo di Stilo も地震後に再建されたものの、2度目の大地震に襲われた時、これは体裁を繕っているバヤイではない!と、11世紀に起源を持つ町で1番歴史がある教会を護るために、優雅な入口だけを残して全体をすっぽり壁で覆ってしまった。この写真じゃあ〜よくわかんないけど “塗り込められた” 箱状になっていて、ある意味必見なんです。
もぅ1つ“必見” ⁈なのがコレ。
入口横に生えてたコレ。
無言で2度見してしまったコレ。
“足” ですね〜コレ
なんですのぉお〜〜コレ?!
近くにいた小さな女の子に「コレなぁに?」と聞いてみると、脱兎の如く逃げられ、普段は子どもウケのよいアテクシ、3ミクロンほど傷ついたけど(笑) 信者が破壊した異教の神の残りモノ。または異教に勝利した象徴物…など、諸説あるようだ。
それでも世の中、気になる人はいるようで、残された唯一の手が掛かり〜履き物に注目した人がいた(笑) 古代ギリシャの時代から、身分や用途によって数種類の履き物があったが、こちらは丈夫で長距離の移動に適した男女兼用のkrepidoi というサンダルの一種らしい。だから、踝から上がどんな人物であれ“杖と振り分け荷物”持った旅人スタイルだったかもしれない。
もし“真実”を知りたなら、BARに集う長老を捕まえて話を聞くといい。真偽はどうであれ、必ずやオモロイハナシを聞かせてくれることだろう。
おぉ〜っと!!! ココでもオールドチンク発見(//∇//)
今でも動くの?ノンノン、そんなこたぁ〜ど〜でもイイ。出会えただけで目ン玉ハート♪
南部での遭遇率は北より遙かに高い気がします。
で、多分地震のせいだと思うけど、城門(Porta Reale) が崩れ落ちちゃってる。これはコレで絵になる風景だが、他の通りの城門は修復再現されているので、ココもそのうち手が入ることだろう。なんといっても16世紀の遺跡なのだから。
同じ通りを下っていくと、アラブとビザンチンの同盟を意味した2匹のイルカの噴水があり、狭い道から視界が広がってきたな〜と思うと、正面に
S・フランチェスコ教会が見えてくる。
ここにはスティーロが生んだルネサンス時代の代表的な哲学者
トマソ・カンパネッラの像がある。難しそうで読む気にもならないけど(笑) 代表的な著作
『太陽の都』は岩波文庫から出版されているので(さすが岩波!!(違)、興味のある方は…どうぞ(^^ゞ
度重なる震災にもめげず、カットリーカに近い山裾に居を構え続けた先人たち。そこは今、迷路のように小径が延びる旧市街になっている。
そ〜ゆ〜所を気ままに歩くのが大好きで、町の西側まで行けなかったんだけど、ま、それもイイんじゃない?! チンクだけじゃない、絵になる光景もいっぱい転がってるし…ね。
最後に…背後に迫るコンソリーノ山の麓を囲むように、スティーロを含め3つの町が点在している。そのうち山を挟んで北にある
Bivongi〜ビヴォンジは、かな〜り感じが良い町だ。昨今注目されている散在型宿泊施設〜
アルベルゴ・ ディフーゾ(Albergo Diffuso)も取り入れているので1泊するのもよいと思うし、スティーロとセットで訪れてもイイと思う。くぅ〜!知ってたら泊まってたのになぁ〜。 ←例によって後で知ったのである(>_<)//